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三国志が終わるころ その2,2~司馬氏三代 完全なる国の盗み方~

西暦249年1月6日 曹魏王朝の三代皇帝曹芳(そうほう)は、先帝曹叡(そうえい)の眠る高平陵に参拝するため首都洛陽(らくよう)を出発。
曹芳の補佐役である大将軍曹爽(そうそう)と彼の弟たちも付き従っていました。

この時、王朝を揺るがす大事件が勃発します。
決起した兵が洛陽を制圧、城門を閉じて皇帝一行の帰還を待ち構えまていたのです。

曹操の代から曹氏に仕え続けてきた名臣司馬懿(しばい)が起こしたクーデター “高平陵の変”です。

主家をしのいで三国争覇の時代を終わらせた司馬氏。
前回からひき続き、宮城谷 昌光さんの歴史小説「三国志」から彼らのダークな活躍を追っていきたいと思います。

曹氏凋落の始まり 高平陵の変


国政の実権を握る大将軍曹爽の独裁を終わらせるべく、司馬懿は挙兵しました。

討つべき敵は曹爽兄弟ですが彼らは皇帝に同行しています。客観的には司馬懿は皇帝に対して軍事行動を起こした逆賊の立場にあります。

己の行動を正当化し逆賊の負い目を避けるため、司馬懿は洛陽占拠を実行する前に、郭(かく)皇太后に謁見して許諾を求めます。
私利私欲のために権力を乱用する曹爽たちを王朝から排除するよう上奏し、郭皇太后はこれを支持して司馬懿に詔勅(命令書)をあたえたのです。

郭皇太后はこれまで政治的な行動をしてこなかった人ですが、この時はじめて詔を出しました。
そしてこの先、郭皇太后は魏王朝と司馬氏にとって重大な判断を下すキーマンとなってくるのです。

武力行使の許可を得た司馬懿は洛陽を占拠したのち、皇帝曹芳に対して経緯を説明した上奏文を呈し、曹爽には使者を出して弟たちと共に職を辞して自宅謹慎するよう通告します。

辞職すれば罰を受けることなく許されるという使者からのメッセージを信じた曹爽は、無抵抗で降伏します。
曹芳は無事に帰還することができました。
しかし曹爽と弟たちが許されることはありませんでした。
曹芳から帝位を奪い取ろうと企てていたた彼らは、取り巻きの浮華の徒もろとも死刑に処されたのです。
さらに彼らの一族老若男女ことごとく死刑という凄惨な結末となりました。

高平陵の変以降、政権の中枢は司馬氏へと移ります。

忠臣天下を乱さんとす

高平陵の変は司馬懿の野心から起こした行動ではないか、と疑る者がいました。兗州(えんしゅう)刺史(しし)の令狐愚(れいこぐ)です。刺史とは州の長官のことです。
彼は年若い曹芳では司馬懿を制御することが出来ず、実権を握った司馬氏が王朝を牛耳るのではないかと考えたのです。

令狐愚は司空という高位に就いている叔父の王凌(おうりょう)と共謀し、曹操の実子であり楚王の曹彪(そうひょう)を擁立して皇帝の入れ替えを目論みます。
司馬懿と曹芳を標敵としたクーデター計画です。

曹彪へ使者を送りながら実行の機を窺う二人に、思いもよらぬハプニングが発生します。
なんと計画の発案者である令狐愚が病により急死してしまったのです。

それでも王凌はクーデターをあきらめませんでした。楚王(そおう)・曹彪もようやく乗り気になってきたところなのです。
何よりも魏王朝の実権を曹氏の手に取り返さなくてはならない、という正義感に動かされていました。

しかし計画実行のためには王凌単独の兵力では力不足です。甥の令狐愚が率いる予定であった兗州の兵力がどうしても必要でした。
令狐愚の後任の兗州刺史・黄華は親戚でも何でもありませんが、王凌は計画に参加してもらうため説得の使者を出します。

不覚にもこの一手が命取りとなります。
黄華がクーデターに反対するとこれに同調した使者も王凌を見限ったのです。
結局、黄華らの密告により王凌の計画は司馬懿の知るところとなってしまいます。

司馬懿はすぐさま討伐軍を編成して王凌のいる揚州(ようしゅう)へ出陣します。
そうとうな速さで行軍し、迎撃準備をする間もあたえず王凌の拠点目前まで進軍すると、王凌の息子王広(おうこう)に父親を説得するための書簡を送らせます。

この時司馬懿は、「謀叛の罪は首謀者の令狐愚にある、自ら出頭すれば王凌の罪は問わない。」 と王広に言いました。
息子からの書簡を読み、打つ手無しと悟った王凌は司馬懿の言葉を信じて自らを縛って出頭します。

かつて曹爽が甘言を信じて滅ぼされたように、王凌もまた破滅の時を迎えます。王凌は司馬懿にむけて叫びました。

「あなたは書翰でわれを召したくせに、われに会おうとなさらぬ。われはくるべきではなかった」
と、叫んだ。すると司馬懿が姿をあらわした。
「君があの書翰通りにしてくれるとは、おもわなかったよ」
王凌は愕然とした。
「あなたは、われを騙したのか」
「わたしは君を騙しても、国家を騙すことはしない」
と、司馬懿は傲然といった。
~ 宮城谷 昌光『三国志』 十一巻より

ここにみえるのは国家や皇帝に仇なす者には一切容赦しない、冷徹な策士の姿です。
王凌は取り調べのため洛陽へ送られる途中に毒を飲んで自殺してしまいします。

こののち皇族の曹彪をはじめ王凌の乱に関わった者やその血族、属官など大勢の人が反逆の罪で処刑されました。
皇族による謀叛が続くことを危惧した司馬懿は、皇室の血を引く諸王侯をひとつの都市に集めて住まわせ、監視役をおいて連絡をとりあえないようにします。

こうして王凌の乱を未然に防いだ司馬懿は持病が重くなり同年西暦251年8月に他界します。享年73歳でした。

名将死す

司馬懿への後世の評価は辛辣なものが多く、魏を滅ぼした元凶のように語られます。はたして彼は国家を盗み取った奸雄なのでしょうか?😳

司馬懿は曹操の代から数えて4人の主君に仕えました。曹操には警戒されていたものの、曹丕(そうひ)曹叡(そうえい)曹芳の3人の皇帝からは絶大な信頼を得ていました。
皇帝たちは彼を魏の柱石として、二心のない忠臣として頼りにしていたのです。
司馬懿もまた主君の信頼に応えないことはなく、国家と主君を守りぬきました。

司馬懿の事績を顧みれば、一途に国家と主君の敵と戦い勝ち続けた名将であると言えます。敵に勝ち続けたすえに皇族曹氏が弱体化してしまったという皮肉な結果になってしまっただけです。

のちに彼の息子や孫が曹氏をしのいで本当に国家簒奪をやったために、後世の史家たちは司馬懿のせいで曹氏は滅んだと(確かに一理あるでしょう)、元凶扱いしたのです。

また、司馬懿の“勝ちかた”も印象を悪くさせているのかもしれません。
詐言をもって敵を釣りよせ、負かした勢力は徹底的に滅ぼしました。
記事には書きませんでしたが、遼東(りょうとう)郡の公孫淵(こうそんえん)に勝利したときにも、反抗勢力が生まれないように大規模な殺戮を行いました。
とにかく司馬懿は敵に勝つことそして滅ぼすことに徹底していました。
その巧緻さ、凄まじさに“悪”の面が見いだされたとしても不自然ではないでしょう。

いずれにせよ、彼が叛逆行為をはたらたという事実はありません。
司馬懿自身には国を盗み取ろうという野心はなかったということでしょう。彼はただ一代の忠臣だったのです。

* 三国争覇は新世代へと

司馬懿亡き後、中心人物を失った朝廷で
会議が行われます。司馬懿の後任として喪中の長男の司馬師を執政とすべし、という声が多く曹芳もこれを即決しました。
司馬師は撫軍(ぶぐん)大将軍に任命され王朝の全権を担う立場となります。

偉大な父親の存在に隠されてきた司馬師ですが凡庸な男ではありません。
高平陵の変では父と共に計画を練り上げ、挙兵の日には卒なく兵を率いて洛陽のを封鎖しました。それだけでなく自ら3000の死士を養い戦闘に備えていたのです。

司馬親子の世代交代は三国志の世代交代の象徴と言えるかもしれません。
司馬懿が消え、群雄割拠の時代の英雄たちはだれもいなくなりました。

いよいよ権勢を強めてゆく司馬氏。
次回は司馬師の活躍を書いていこうと思います。