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三国志が終わるころ その2.3~司馬氏三代 完全なる国の盗み方~


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西暦252年 呉の大将軍 諸葛恪(しょかつかく)は魏呉の歴戦の戦場である合肥の近く、東興に大きな堤を建造し、さらに堤の両端に城を築きました。

揚州(ようしゅう)と対呉戦線を担当している鎮東将軍の諸葛誕(しょかつたん)はこの新しい二つの城が魏の脅威となると危険視して、すぐに朝廷に報告します。
それに加え父の喪に服している司馬師(しばし)にも書簡を送り、東興の二城への攻撃を行うこと、その際別方面へも軍を送り呉の援軍を分断することなどを進言しました。

魏呉蜀の三国ともに創業期の名将名臣はことごとく世を去り、次世代の英俊たちが歴史を動かす時代となったのです。

魏では名将司馬懿(しばい)の後継者として長男の司馬師(しばし)が王朝の実権を掌握しました。

司馬師台頭す 新世代の激突が始まる


諸葛誕からの書簡を受け取った司馬師は当初軍を動かすことに否定的でした。
しかしそのまま捨て置けば呉の増長を招くであろうと考え、次第に攻撃容認へと変わっていきます。

朝廷からこのことで諮問された司馬師は、諸葛誕に東興の二城を攻めさせるよう答えました。
さらに王昶(おうちょう)毋丘倹(かんきゅうけん)の二将にそれぞれ軍を率いさせ、三方面からの侵攻作戦を提案しこれが実行されました。

しかしこの作戦は失敗に終り、敗退した諸葛誕軍は数万の死者をだす惨敗を喫します。王昶・毋丘検も諸葛誕軍が消滅したことにより成果をあげることなく撤退しました。

この敗戦の責任を問う会議で司馬師は、忠告を退け判断を下した自分に責任があるとして、諸将の責任を問うことをしませんでした。
あわせて諸軍の統率者として諸葛誕に同行していた弟の司馬昭にも責任を負わせ、彼の爵位を降格させました。

この司馬師の潔い姿勢は群臣に好意的に受け入れられ、王朝の運営者としての評価を高める結果となったのです。

一方、魏に大勝した呉の諸葛格はこの勢いで合肥まで攻略しようと考えます。蜀に使者を送り東西同時に魏を攻める作戦を提案します。
蜀の中心的存在となっていた姜維(きょうい)は魏を攻めたいと強く欲していたため、この誘いに乗ることにします。蜀の皇帝劉禅(りゅうぜん)の許可もおりて呉と共に魏を挟撃することになりました。

闘志に燃える諸葛格率いる呉軍は勢いよく合肥の新城(合肥には新旧二つの城がある)まで進撃し、新城を包囲します。

西では姜維率いる蜀軍が順調に侵攻していました。

さすがの司馬師も苦悩しました。諸将も意気消沈しているなかで、対応策を見いだすため賢臣虞松(ぐしょう)の知恵を借り、東西の敵軍に対処します。

東西の戦いは虞松の推測どおりの展開をみせます。

援軍の来ない合肥新城は呉軍の猛攻によく耐え、逆に攻める呉軍に死傷者が続出。
攻めあぐねているうちに、やがて疫病が陣中に蔓延しすべての兵の半数が病にたおれるという異常事態に発展してしまいます。

方や西の蜀軍は魏軍が想定以上の大軍で接近してくることが判明し、退路を断たれる前に撤退してしまいました。

姜維は呉軍が攻める合肥方面が主戦場となると見て魏軍は東方に戦力を集中させると考え、大戦を行うための準備をしていませんでした。
この姜維の思考を虞松は推量し西方の兵力を集中して蜀軍にあたらせ、かえって合肥新城には援軍を出さずに放置するという大胆な献策をしたのです。

孤軍奮闘の合肥新城に苦戦し続ける呉軍、諸葛格は戦局を好転させることができません。
司馬師は呉軍が消耗してきたと見定めると、これまで止めてきた諸将に呉軍への攻撃指令を出します。

諸葛格は魏の大軍が向かってくることを知り、無念の撤退を選択しました。
呉軍は大勢の死傷者をだし軍資を浪費しただけの大敗に終わりました。

諸葛格は呉へ帰国したのち、合肥の惨敗と度重なる独断専行のせいでおおいに人望を失い、ついに誅殺されてしまいます。
傲岸不遜の性格が災いした諸葛格ですが、
合肥での大敗以外は優秀な人物であったことに違いはなく、呉は数少ない才能をむざむざ殺してしまったことになります。

諸葛格は知略にすぐれていましたが、惜いことに人間関係の形成あるいは自勢力の形成といった権力基盤の構築には無頓着でした。


一方東西の脅威をしりぞけた司馬師にもまた、次なる敵の策謀が迫っていました。

魏の皇帝曹芳の側近、李豊(りほう)が司馬師の抹殺を企てていたのです。

異心芽生える 司馬師の皇室解体始まる


李豊は中書令(ちゅうしょれい)という皇帝と政府の間を取り次ぐ役目に就いていました。曹芳の側近と言ってよいでしょう。
加えて李豊の息子李韜(りとう)は先帝曹叡(そうえい)の娘と結婚しており、李豊は皇室の姻戚になります。
曹芳と李豊は二人だけで対話することもしばしばあるほど親密でした。

それほどに皇帝との距離が近い李豊ですから、司馬師を中心に動いている朝廷の現状に強い危機感を持っていました。
その思いは、かつて司馬懿が王朝の主宰者であることに反発した王凌と同じものでした。
李豊もまた司馬師が皇帝を蔑ろにして権勢をふるっていると見ていたのです。

李豊だけでなく、曹氏を支え続けてきた名門夏侯氏の筆頭者夏侯玄(かこうげん)や張皇后の父である張緝(ちょうしゅう)など皇室に近しい者たちは司馬師を排除したいと考えていました。
皇帝の曹芳自身もまた司馬師を嫌い畏怖していたのです。

司馬師は皇族に敵視されてしまいました。父の司馬懿との違いは皇帝にさえ忌まれたことでしょう。

司馬懿は先帝曹叡から曹芳を補佐するようにとの遺命を受け、事実曹芳を廃替の危機から守ったこともあります。
さらに司馬懿は曹操の代から仕え、曹丕・曹叡の二人の皇帝から絶大に信頼されていました。
そういった経緯があったからこそ王朝の実権を握る立場となっても皇帝に嫌われずにすんだのでしょう。

司馬師は父ほどの信頼はなく、また彼自身どれほどの忠誠心があったのか、曹芳に嫌忌される程度であったのでしょうか。

とにかく司馬師を抹殺するべく李豊は李韜、張緝、曹芳に近侍する数人を巻き込んで陰謀を進めます。
李韜を使者に立てて夏侯玄にも参加を呼び掛けますが反応は鈍く、夏侯玄の力添えは期待できない状況です。

李豊の計画とは、宮殿の女官を任命する日に曹芳は公前に姿を現します、その際に司馬師を廃するべしと曹芳に上奏し宮殿を警護する近衛兵をもって参内している司馬師を捕らえる、というものでした。
李豊は協力者を集め周到に計画を進めますがこの計画を曹芳には知らせていませんでした。

皇帝と皇室を守護しようという忠義心から発した計画でしたが、唐突な結末をむかえることになります。

協力者を集めるうちにどこからか秘密が漏れ、司馬師の知るところとなってしまったのです。

自分を殺す計画があることに衝撃を受けた司馬師ですが、次第にある感情が芽生えはじめます。
それは王凌や夏侯玄や李豊が恐れていた危険な感情でした。




いよいよ暗黒化してきた司馬師の活躍を次回も書いていこうと思います。