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三国志が終わるころ その2~司馬氏三代 完全なる国の盗み方~

三国志終盤の主役は司馬懿(しばい)と彼の2人の息子たち司馬師(しばし)・司馬昭(しばしょう)である、と言って過言ではないでしょう。

司馬親子は魏王朝内で権勢を強め、自分たちを強大に成長させた主人である曹氏を無力化し、遂には王権を奪って晋という国に造り変えてしまいます。

国家に対する最大の裏切り行為を完遂した司馬親子は三国志最大のダークヒーローであり、ダークヒーローが天下統一を果たすというバットエンドが三国志なのです。

司馬親子の国盗りプロセスは隙がなく、そして強力でした。敵対した勢力は一族滅亡させられることもあったのです。
ただし敵対勢力には容赦なしの司馬氏ですが、一般の官吏や市民には全く被害を与えませんでした。
そのため、司馬氏が支配力を強めることに肯定的な者も多く、鐘会(しょうかい)や賈充(かじゅう)、傅カ(ふか)のような能臣も積極的な協力者となったのです。

今回は、時代の覇者となった司馬氏その勃興の祖、司馬懿ついて記事にしました。







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司馬懿 ~遅れて来た名将 三国を席捲する

魏王朝内で隠然たる権力を築き上げた司馬懿。彼は己の腕一本で司馬氏勃興の端緒を開いたのです。

司馬懿は曹操によって召し出されましたが、曹操存命時には曹操の嫡男曹丕の補佐役としての仕事が主であり、大軍を指揮するような将軍位には就いていませんでした。
曹操は司馬懿の才知を警戒していたようですが、近侍していた曹丕からは絶大な信頼を勝ち得ていました。これが後に司馬懿にとって大きな機運となります。

曹丕が魏の初代皇帝に即位すると、司馬懿もそれに連れて国家の重臣の地位と将軍位を得ます。
その後曹丕が逝去し、二代皇帝曹叡(そうえい)の代になると、ついに軍隊を指揮して前線で活躍するようになります。
ちなみに宮城谷『三国志』第九巻ではいよいよ戦場に登場することになる司馬懿を以下のように描写しています。

軍を動かせるようになっても、つねに後方の守備をまかせれてきた司馬懿は、はじめて前線で指揮する昂奮をおさえきれず、
―あざやかに勝ってみたい。
と、おもった。この年に司馬懿は四十八歳である。

(宮城谷 昌光『三国志』九巻より)

四十八歳の初陣、司馬懿は武将としては相当な遅咲きでありました。
それから5年後、司馬懿は祁山(きざん)という地で諸葛亮と初対決するのです。

司馬懿と諸葛亮の対戦は祁山と五丈原の二度。二度とも諸葛亮率いる蜀軍は撤退に追い込まれました。
蜀軍撤退の理由は“食糧不足・諸葛亮の陣中での病死”とダメージを負ってのことではありませんが、持久戦を制した司馬懿に勝ち運があったと言っていいでしょう。
特に祁山での初対決は、局地戦では諸葛亮が勝っているにもかかわらず結局は撤退を余儀なくされる、という完全な運勝ちです。

祁山の戦いは司馬懿の“唯一”の軍事的失敗となりました。
しかしこれ以前もこれ以後も司馬懿は出陣して全戦全勝、蜀・呉に名将が少なくなっていた時代とはいえ驚異的な戦績です。

武将としての出遅れを取り戻すかのように瞬く間に軍功を重ねていく司馬懿。
曹操の代から仕えていた名将たちも全て世を去り、軍功で司馬懿に及ぶ者は王朝内に誰もいなくなりました。

そして曹叡が亡くなり、幼い曹芳(そうほう)が三代皇帝に即位すると先代から引き続き皇帝の補佐役に任命されます。

『三国志』十巻では曹叡の死を目前にした側近や皇族が、次代の権勢を求めて皇帝の病床のすぐ傍で蠢くさまが描かれています。
創業の英傑たちがいなくなり幼帝を立てるようになった魏王朝は、徐々に暗い権力闘争の舞台へと化していくのです。
怪しい気配を感じながら曹叡の今際のきわに駆けつけた司馬懿。
曹叡との最後の謁見で落涙し声を震わせる姿は、彼が怜悧狡猾な謀臣ではないと読者に気づかせてくれます。

この時、司馬懿はもはや魏王朝内で最上位の功臣となっていました。


名臣決起す 司馬氏の運命が変転する時

司馬懿と共に幼帝曹芳の補佐役として皇族の曹爽(そうそう)が任命されました。
この曹爽の存在が司馬懿のそして彼の息子たちの運命のターニングポイントとなったのです。

曹爽は就任した当初こそ司馬懿と協調して王朝運営に勤しんでいましたが、取り巻きの提言などがあり司馬懿を警戒するようになります。
そして司馬懿を権能を持たない名誉職に祭り上げ国政の実権をおのれ一人が掌握します。
曹爽はこの時点で、司馬懿と共に幼帝を補佐せよという先帝の遺命に背いていることになります。

その後、何晏(かあん)や丁謐(ていひつ)など曹爽と親しく付き合っていた者たちが国政の中枢に立つようになります。
彼らは“浮華の徒”と蔑視され、曹丕・曹叡の時代では重用されることはありませんでした。曹爽は彼らが実力どおり評価されず不遇をかこっていると考えていたのです。

国政から遠ざけられた司馬懿は沈黙します。この時点では実権を握った曹爽に表だって反発することはありませんでした。

政治の権能を失った司馬懿ですが、軍事面では変わらず王朝内に並ぶ者なき名将です。
専横を続ける曹爽をよそ目に、侵攻してきた呉軍を撃退するため出陣し、二度にわたって呉軍を退けます。

ますます高まる司馬懿の軍功に対抗するように、今度は曹爽が軍を率いて蜀へ遠征します。
この遠征は曹爽ととりまきたちの軍事能力の低さが原因で見事に大失敗します。
曹爽の軍事のまずさを天下にさらしてしまう結果となってしまいました。

遠征に失敗した曹爽ですが王朝内での権勢は衰えません。それどころか浮華の徒を重用して専横ぶりは悪化する一方です。
要職にありついた何晏らは曹爽と結託し、恣意的に制度や法律を改変したり、領地や官物を横領したりと汚職のやりたい放題です。

天子曹芳の保護者である郭(かく)皇太后が司馬懿を信頼していると聞いた曹爽は、曹芳が影響されることを危惧して二人を離ればなれにしてしまいます。
曹爽の増長は皇帝をすら蔑ろにするレベルになっていたのです。
そればかりか浮華の徒にもてはやされ自らが皇帝となる野心を抱くようになります。
次第に司馬懿と曹爽は対立する関係になっていきました。

曹爽の権勢が絶頂期をむかえた頃、司馬懿は病と称して出仕を控えるようになります。
朝廷からまったく身を引いたかたちの司馬懿ですが、曹爽の動向に眼を光らせることを忘れてはいません。
帝位簒奪の噂も耳にして、長男の司馬師と語らい曹爽にどう対抗するか画策します。

そしてついに、司馬懿は兵を起こして曹爽を王朝から排除する決意を固めます。

決行は年が改まって正月。
天子曹芳が先帝の眠る高平陵(こうへいりょう)に墓参する際、曹爽は郡弟を引きつれてお供することになっています。
その時を狙って挙兵する計画です。

この高平陵の変は司馬氏が曹氏に牙を剥いた最初の一撃であり、この事件をさかいにして司馬氏の運命が変わり始めるのです。

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長々と書いてきましたが、まだまだ書き切れません。😅
次回の記事も司馬懿とその息子たちをテーマに書いていきます。