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私たちはシャーロック・ホームズと同じ思考回路を獲得できるのか?

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「初歩的なことだよ、ワトスン君」
シャーロック.ホームズはそう言って、友人が見落としていたいくつもの事実とそれらが紡ぎだす事件の真相を語ってくれます。

ホームズの物語を読むとき、読者はホームズの卓越した観察眼や分析力や推理力を、彼独自の才能によるものだと理解し、その活躍を楽しむものです。
ホームズと共に多くの事件を経験した友人のジョン.H.ワトスンも私たち読者同様に天才の所業の傍観者でありました。

ホームズとワトスン、天才とそうでない普通の人の差は根本的な思考能力の差だと多くの読者は思っていることでしょう。

そのホームズの天才的な思考を心理学や脳科学に基づいて分析、解説しているのがマリア.コニコヴァ著『シャーロック.ホームズの思考術』です。

題名こそ『シャーロックホームズの思考術』となっていますが、ホームズ一人にフォーカスしているわけではありません。
私のような凡人もホームズも含めて、人間の思考プロセスとはどのようなものかということを解説しています。

本書ではホームズ作品からさまざまなエピソードを引用して人間の脳の仕組みや心理や潜在意識の働きなどを解説してくれます。

ホームズと同じ体験をしているワトスンがなぜ必要な事実を見落としたり誤解がおきてしまうのか、人間の思考の落とし穴とそれを回避するホームズの思考プロセスを今回記事にしていこうと思います。


直感的思考プロセス“ワトスンシステム”には落とし穴がいっぱい

人間は日常的な思考習慣として、直感的に物事を判断するということをしています。

これまでの経験や知識をもとに「これは果物だ」とか「これは乗り物だ」などパッと見ただけで認識し判断を下します。

これはいわゆる“観念”のことですが、人間は考えるエネルギーを少なくして楽するために時間をかけずに思考しているのです。

この直感的で安易な思考プロセスを本書では「ワトスンシステム」と名付けています。

ごく普通の思考プロセスである「ワトスンシステム」は無意識で働く自動運転のため、人はこうした思考をしていることは無自覚です。
そして困ったことには、怠慢で注意力に欠けていて、多様な要因に影響を受けてしまいます。

その結果重要な事実を見落としたり、間違った判断を下したり、事実誤認を引き起こしたりするのです。

「ワトスンシステム」がどのような思考プロセスであるか、具体例として本書では『四つの署名』事件の依頼人、メアリ.モースタン嬢を初めて見たときのワトソンの反応を挙げています。

メアリ.モースタンがベイカー街二二一Bに入ってきたとき、ワトスンが見たのは
「小柄で上品なブロンドの若い婦人で、きちんと手袋をはめ、服装の趣味も洗練されていた。だが、着ているものは質素で地味で、あまり暮らしが豊かでないことを示していた。」
という女性だった。この印象はすぐに、ワトスンの頭の中にある、彼が知っている若い上品なブロンド女性の記憶を刺激する。
-念のためだが、これは軽薄な女性像ではない。

このあとワトスンはメアリの容姿を「顔立ちがととのっているわけでもなければ~」としながらも、相当な好印象をもったらしく賛辞を並べ立てています。

しかしこの視覚的印象が思考の落とし穴です。
ワトスンはモースタン嬢の容姿を見たというだけで、彼女の本質を知るようなやりとりを経ていません。
にもかかわらず彼女の性質までも自分の中に作りあげてしまっては、事実誤認のもとになります。

人のいい博士はあっという間に、髪の色と肌、ドレスのスタイルから、それとはまるで関係ない性格診断にまで達してしまった。

(中略)ワトスンは一瞬のうちに、新しい知り合いを肉付けするため、屋根裏部屋にある大量の貯蔵物のうち“自分の知っている女性”というラベル付きの経験を使った。

(中略)このワトスンの傾向は一般的かつ強力で、〈利用可能性ヒューリスティック〉または〈想起ヒューリスティック〉と呼ばれる。

私たちは、ある時点で想起しやすいことを優勢して利用するのだ。そして思いだしやすければ、その妥当性と真実性に、より強い自信をもつ。

上の引用にある屋根裏部屋とは、本書における人の頭脳の例えです。
ワトスンは自分の知識から、想起しやすい人物像をモースタン嬢に当てはめ、それを起点に思考を進めているのです。

こうした思考プロセスは前述したように、
無意識に自動的に進行しています。
ですのでワトスンがお人好しだからとか、軽率であるとかいう問題ではありません。

誰の頭脳にも、ホームズにも例外なく、「ワトスンシステム」が存在して作用しているのです。

第一印象からくる思い込みはワトスンシステムの失敗の一例に過ぎません。
この他にも、先入観・環境から受ける刺激・客観性の欠如・選択力の不足などなど、本当にたくさんの要因が思考に影響してくるのです。

直感的思考プロセスに対処する“ホームズシステム”


間違いを起こしやすい「ワトスンシステム」はホームズの頭脳にも存在している、これは間違いありません。

しかし、多くのかたがご存知のように彼は、常に重要な事実を見逃さず、誤ることなく事件の真相にたどり着くことが出来ます。

そのわけは、ホームズは「ワトスンシステム」が間違った考えを起こさないようにコントロールする思考習慣を身につけているからです。
本書ではホームズのコントロールが効いたその思考プロセスを「ホームズシステム」としています。

こう書くと、『結局ホームズが特別な頭脳の持ち主だからか』、と思われるでしょうがそうではありません。

彼は長年思考訓練を積み重ねることによって、「ホームズシステム」を体得したのです。

このことは熟練の職人が高度な技術や知識を駆使するのと同じで、訓練と習慣づけによって高次な思考プロセスに引き上げることができる、と作者コニコヴァさんは言っているのです。

もちろんホームズのようなずば抜けた思考力に達するのは至難です。

しかし、「ホームズシステム」を意識して努力することは無価値ではないはずです。

「ワトスンシステム」の悪癖を理解し、「ホームズシステム」の思考プロセスをトレース出来るようになれば、その人の思考力は大きく成長することになるでしょう。

次回の記事は「ホームズシステム」とは具体的にどのような思考か、本書から(全てではありませんが)見ていこうと思います。

三国志が終わるころ その2.3~司馬氏三代 完全なる国の盗み方~


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西暦252年 呉の大将軍 諸葛恪(しょかつかく)は魏呉の歴戦の戦場である合肥の近く、東興に大きな堤を建造し、さらに堤の両端に城を築きました。

揚州(ようしゅう)と対呉戦線を担当している鎮東将軍の諸葛誕(しょかつたん)はこの新しい二つの城が魏の脅威となると危険視して、すぐに朝廷に報告します。
それに加え父の喪に服している司馬師(しばし)にも書簡を送り、東興の二城への攻撃を行うこと、その際別方面へも軍を送り呉の援軍を分断することなどを進言しました。

魏呉蜀の三国ともに創業期の名将名臣はことごとく世を去り、次世代の英俊たちが歴史を動かす時代となったのです。

魏では名将司馬懿(しばい)の後継者として長男の司馬師(しばし)が王朝の実権を掌握しました。

司馬師台頭す 新世代の激突が始まる


諸葛誕からの書簡を受け取った司馬師は当初軍を動かすことに否定的でした。
しかしそのまま捨て置けば呉の増長を招くであろうと考え、次第に攻撃容認へと変わっていきます。

朝廷からこのことで諮問された司馬師は、諸葛誕に東興の二城を攻めさせるよう答えました。
さらに王昶(おうちょう)毋丘倹(かんきゅうけん)の二将にそれぞれ軍を率いさせ、三方面からの侵攻作戦を提案しこれが実行されました。

しかしこの作戦は失敗に終り、敗退した諸葛誕軍は数万の死者をだす惨敗を喫します。王昶・毋丘検も諸葛誕軍が消滅したことにより成果をあげることなく撤退しました。

この敗戦の責任を問う会議で司馬師は、忠告を退け判断を下した自分に責任があるとして、諸将の責任を問うことをしませんでした。
あわせて諸軍の統率者として諸葛誕に同行していた弟の司馬昭にも責任を負わせ、彼の爵位を降格させました。

この司馬師の潔い姿勢は群臣に好意的に受け入れられ、王朝の運営者としての評価を高める結果となったのです。

一方、魏に大勝した呉の諸葛格はこの勢いで合肥まで攻略しようと考えます。蜀に使者を送り東西同時に魏を攻める作戦を提案します。
蜀の中心的存在となっていた姜維(きょうい)は魏を攻めたいと強く欲していたため、この誘いに乗ることにします。蜀の皇帝劉禅(りゅうぜん)の許可もおりて呉と共に魏を挟撃することになりました。

闘志に燃える諸葛格率いる呉軍は勢いよく合肥の新城(合肥には新旧二つの城がある)まで進撃し、新城を包囲します。

西では姜維率いる蜀軍が順調に侵攻していました。

さすがの司馬師も苦悩しました。諸将も意気消沈しているなかで、対応策を見いだすため賢臣虞松(ぐしょう)の知恵を借り、東西の敵軍に対処します。

東西の戦いは虞松の推測どおりの展開をみせます。

援軍の来ない合肥新城は呉軍の猛攻によく耐え、逆に攻める呉軍に死傷者が続出。
攻めあぐねているうちに、やがて疫病が陣中に蔓延しすべての兵の半数が病にたおれるという異常事態に発展してしまいます。

方や西の蜀軍は魏軍が想定以上の大軍で接近してくることが判明し、退路を断たれる前に撤退してしまいました。

姜維は呉軍が攻める合肥方面が主戦場となると見て魏軍は東方に戦力を集中させると考え、大戦を行うための準備をしていませんでした。
この姜維の思考を虞松は推量し西方の兵力を集中して蜀軍にあたらせ、かえって合肥新城には援軍を出さずに放置するという大胆な献策をしたのです。

孤軍奮闘の合肥新城に苦戦し続ける呉軍、諸葛格は戦局を好転させることができません。
司馬師は呉軍が消耗してきたと見定めると、これまで止めてきた諸将に呉軍への攻撃指令を出します。

諸葛格は魏の大軍が向かってくることを知り、無念の撤退を選択しました。
呉軍は大勢の死傷者をだし軍資を浪費しただけの大敗に終わりました。

諸葛格は呉へ帰国したのち、合肥の惨敗と度重なる独断専行のせいでおおいに人望を失い、ついに誅殺されてしまいます。
傲岸不遜の性格が災いした諸葛格ですが、
合肥での大敗以外は優秀な人物であったことに違いはなく、呉は数少ない才能をむざむざ殺してしまったことになります。

諸葛格は知略にすぐれていましたが、惜いことに人間関係の形成あるいは自勢力の形成といった権力基盤の構築には無頓着でした。


一方東西の脅威をしりぞけた司馬師にもまた、次なる敵の策謀が迫っていました。

魏の皇帝曹芳の側近、李豊(りほう)が司馬師の抹殺を企てていたのです。

異心芽生える 司馬師の皇室解体始まる


李豊は中書令(ちゅうしょれい)という皇帝と政府の間を取り次ぐ役目に就いていました。曹芳の側近と言ってよいでしょう。
加えて李豊の息子李韜(りとう)は先帝曹叡(そうえい)の娘と結婚しており、李豊は皇室の姻戚になります。
曹芳と李豊は二人だけで対話することもしばしばあるほど親密でした。

それほどに皇帝との距離が近い李豊ですから、司馬師を中心に動いている朝廷の現状に強い危機感を持っていました。
その思いは、かつて司馬懿が王朝の主宰者であることに反発した王凌と同じものでした。
李豊もまた司馬師が皇帝を蔑ろにして権勢をふるっていると見ていたのです。

李豊だけでなく、曹氏を支え続けてきた名門夏侯氏の筆頭者夏侯玄(かこうげん)や張皇后の父である張緝(ちょうしゅう)など皇室に近しい者たちは司馬師を排除したいと考えていました。
皇帝の曹芳自身もまた司馬師を嫌い畏怖していたのです。

司馬師は皇族に敵視されてしまいました。父の司馬懿との違いは皇帝にさえ忌まれたことでしょう。

司馬懿は先帝曹叡から曹芳を補佐するようにとの遺命を受け、事実曹芳を廃替の危機から守ったこともあります。
さらに司馬懿は曹操の代から仕え、曹丕・曹叡の二人の皇帝から絶大に信頼されていました。
そういった経緯があったからこそ王朝の実権を握る立場となっても皇帝に嫌われずにすんだのでしょう。

司馬師は父ほどの信頼はなく、また彼自身どれほどの忠誠心があったのか、曹芳に嫌忌される程度であったのでしょうか。

とにかく司馬師を抹殺するべく李豊は李韜、張緝、曹芳に近侍する数人を巻き込んで陰謀を進めます。
李韜を使者に立てて夏侯玄にも参加を呼び掛けますが反応は鈍く、夏侯玄の力添えは期待できない状況です。

李豊の計画とは、宮殿の女官を任命する日に曹芳は公前に姿を現します、その際に司馬師を廃するべしと曹芳に上奏し宮殿を警護する近衛兵をもって参内している司馬師を捕らえる、というものでした。
李豊は協力者を集め周到に計画を進めますがこの計画を曹芳には知らせていませんでした。

皇帝と皇室を守護しようという忠義心から発した計画でしたが、唐突な結末をむかえることになります。

協力者を集めるうちにどこからか秘密が漏れ、司馬師の知るところとなってしまったのです。

自分を殺す計画があることに衝撃を受けた司馬師ですが、次第にある感情が芽生えはじめます。
それは王凌や夏侯玄や李豊が恐れていた危険な感情でした。




いよいよ暗黒化してきた司馬師の活躍を次回も書いていこうと思います。

三国志が終わるころ その2,2~司馬氏三代 完全なる国の盗み方~

西暦249年1月6日 曹魏王朝の三代皇帝曹芳(そうほう)は、先帝曹叡(そうえい)の眠る高平陵に参拝するため首都洛陽(らくよう)を出発。
曹芳の補佐役である大将軍曹爽(そうそう)と彼の弟たちも付き従っていました。

この時、王朝を揺るがす大事件が勃発します。
決起した兵が洛陽を制圧、城門を閉じて皇帝一行の帰還を待ち構えまていたのです。

曹操の代から曹氏に仕え続けてきた名臣司馬懿(しばい)が起こしたクーデター “高平陵の変”です。

主家をしのいで三国争覇の時代を終わらせた司馬氏。
前回からひき続き、宮城谷 昌光さんの歴史小説「三国志」から彼らのダークな活躍を追っていきたいと思います。

曹氏凋落の始まり 高平陵の変


国政の実権を握る大将軍曹爽の独裁を終わらせるべく、司馬懿は挙兵しました。

討つべき敵は曹爽兄弟ですが彼らは皇帝に同行しています。客観的には司馬懿は皇帝に対して軍事行動を起こした逆賊の立場にあります。

己の行動を正当化し逆賊の負い目を避けるため、司馬懿は洛陽占拠を実行する前に、郭(かく)皇太后に謁見して許諾を求めます。
私利私欲のために権力を乱用する曹爽たちを王朝から排除するよう上奏し、郭皇太后はこれを支持して司馬懿に詔勅(命令書)をあたえたのです。

郭皇太后はこれまで政治的な行動をしてこなかった人ですが、この時はじめて詔を出しました。
そしてこの先、郭皇太后は魏王朝と司馬氏にとって重大な判断を下すキーマンとなってくるのです。

武力行使の許可を得た司馬懿は洛陽を占拠したのち、皇帝曹芳に対して経緯を説明した上奏文を呈し、曹爽には使者を出して弟たちと共に職を辞して自宅謹慎するよう通告します。

辞職すれば罰を受けることなく許されるという使者からのメッセージを信じた曹爽は、無抵抗で降伏します。
曹芳は無事に帰還することができました。
しかし曹爽と弟たちが許されることはありませんでした。
曹芳から帝位を奪い取ろうと企てていたた彼らは、取り巻きの浮華の徒もろとも死刑に処されたのです。
さらに彼らの一族老若男女ことごとく死刑という凄惨な結末となりました。

高平陵の変以降、政権の中枢は司馬氏へと移ります。

忠臣天下を乱さんとす

高平陵の変は司馬懿の野心から起こした行動ではないか、と疑る者がいました。兗州(えんしゅう)刺史(しし)の令狐愚(れいこぐ)です。刺史とは州の長官のことです。
彼は年若い曹芳では司馬懿を制御することが出来ず、実権を握った司馬氏が王朝を牛耳るのではないかと考えたのです。

令狐愚は司空という高位に就いている叔父の王凌(おうりょう)と共謀し、曹操の実子であり楚王の曹彪(そうひょう)を擁立して皇帝の入れ替えを目論みます。
司馬懿と曹芳を標敵としたクーデター計画です。

曹彪へ使者を送りながら実行の機を窺う二人に、思いもよらぬハプニングが発生します。
なんと計画の発案者である令狐愚が病により急死してしまったのです。

それでも王凌はクーデターをあきらめませんでした。楚王(そおう)・曹彪もようやく乗り気になってきたところなのです。
何よりも魏王朝の実権を曹氏の手に取り返さなくてはならない、という正義感に動かされていました。

しかし計画実行のためには王凌単独の兵力では力不足です。甥の令狐愚が率いる予定であった兗州の兵力がどうしても必要でした。
令狐愚の後任の兗州刺史・黄華は親戚でも何でもありませんが、王凌は計画に参加してもらうため説得の使者を出します。

不覚にもこの一手が命取りとなります。
黄華がクーデターに反対するとこれに同調した使者も王凌を見限ったのです。
結局、黄華らの密告により王凌の計画は司馬懿の知るところとなってしまいます。

司馬懿はすぐさま討伐軍を編成して王凌のいる揚州(ようしゅう)へ出陣します。
そうとうな速さで行軍し、迎撃準備をする間もあたえず王凌の拠点目前まで進軍すると、王凌の息子王広(おうこう)に父親を説得するための書簡を送らせます。

この時司馬懿は、「謀叛の罪は首謀者の令狐愚にある、自ら出頭すれば王凌の罪は問わない。」 と王広に言いました。
息子からの書簡を読み、打つ手無しと悟った王凌は司馬懿の言葉を信じて自らを縛って出頭します。

かつて曹爽が甘言を信じて滅ぼされたように、王凌もまた破滅の時を迎えます。王凌は司馬懿にむけて叫びました。

「あなたは書翰でわれを召したくせに、われに会おうとなさらぬ。われはくるべきではなかった」
と、叫んだ。すると司馬懿が姿をあらわした。
「君があの書翰通りにしてくれるとは、おもわなかったよ」
王凌は愕然とした。
「あなたは、われを騙したのか」
「わたしは君を騙しても、国家を騙すことはしない」
と、司馬懿は傲然といった。
~ 宮城谷 昌光『三国志』 十一巻より

ここにみえるのは国家や皇帝に仇なす者には一切容赦しない、冷徹な策士の姿です。
王凌は取り調べのため洛陽へ送られる途中に毒を飲んで自殺してしまいします。

こののち皇族の曹彪をはじめ王凌の乱に関わった者やその血族、属官など大勢の人が反逆の罪で処刑されました。
皇族による謀叛が続くことを危惧した司馬懿は、皇室の血を引く諸王侯をひとつの都市に集めて住まわせ、監視役をおいて連絡をとりあえないようにします。

こうして王凌の乱を未然に防いだ司馬懿は持病が重くなり同年西暦251年8月に他界します。享年73歳でした。

名将死す

司馬懿への後世の評価は辛辣なものが多く、魏を滅ぼした元凶のように語られます。はたして彼は国家を盗み取った奸雄なのでしょうか?😳

司馬懿は曹操の代から数えて4人の主君に仕えました。曹操には警戒されていたものの、曹丕(そうひ)曹叡(そうえい)曹芳の3人の皇帝からは絶大な信頼を得ていました。
皇帝たちは彼を魏の柱石として、二心のない忠臣として頼りにしていたのです。
司馬懿もまた主君の信頼に応えないことはなく、国家と主君を守りぬきました。

司馬懿の事績を顧みれば、一途に国家と主君の敵と戦い勝ち続けた名将であると言えます。敵に勝ち続けたすえに皇族曹氏が弱体化してしまったという皮肉な結果になってしまっただけです。

のちに彼の息子や孫が曹氏をしのいで本当に国家簒奪をやったために、後世の史家たちは司馬懿のせいで曹氏は滅んだと(確かに一理あるでしょう)、元凶扱いしたのです。

また、司馬懿の“勝ちかた”も印象を悪くさせているのかもしれません。
詐言をもって敵を釣りよせ、負かした勢力は徹底的に滅ぼしました。
記事には書きませんでしたが、遼東(りょうとう)郡の公孫淵(こうそんえん)に勝利したときにも、反抗勢力が生まれないように大規模な殺戮を行いました。
とにかく司馬懿は敵に勝つことそして滅ぼすことに徹底していました。
その巧緻さ、凄まじさに“悪”の面が見いだされたとしても不自然ではないでしょう。

いずれにせよ、彼が叛逆行為をはたらたという事実はありません。
司馬懿自身には国を盗み取ろうという野心はなかったということでしょう。彼はただ一代の忠臣だったのです。

* 三国争覇は新世代へと

司馬懿亡き後、中心人物を失った朝廷で
会議が行われます。司馬懿の後任として喪中の長男の司馬師を執政とすべし、という声が多く曹芳もこれを即決しました。
司馬師は撫軍(ぶぐん)大将軍に任命され王朝の全権を担う立場となります。

偉大な父親の存在に隠されてきた司馬師ですが凡庸な男ではありません。
高平陵の変では父と共に計画を練り上げ、挙兵の日には卒なく兵を率いて洛陽のを封鎖しました。それだけでなく自ら3000の死士を養い戦闘に備えていたのです。

司馬親子の世代交代は三国志の世代交代の象徴と言えるかもしれません。
司馬懿が消え、群雄割拠の時代の英雄たちはだれもいなくなりました。

いよいよ権勢を強めてゆく司馬氏。
次回は司馬師の活躍を書いていこうと思います。



三国志が終わるころ その2~司馬氏三代 完全なる国の盗み方~

三国志終盤の主役は司馬懿(しばい)と彼の2人の息子たち司馬師(しばし)・司馬昭(しばしょう)である、と言って過言ではないでしょう。

司馬親子は魏王朝内で権勢を強め、自分たちを強大に成長させた主人である曹氏を無力化し、遂には王権を奪って晋という国に造り変えてしまいます。

国家に対する最大の裏切り行為を完遂した司馬親子は三国志最大のダークヒーローであり、ダークヒーローが天下統一を果たすというバットエンドが三国志なのです。

司馬親子の国盗りプロセスは隙がなく、そして強力でした。敵対した勢力は一族滅亡させられることもあったのです。
ただし敵対勢力には容赦なしの司馬氏ですが、一般の官吏や市民には全く被害を与えませんでした。
そのため、司馬氏が支配力を強めることに肯定的な者も多く、鐘会(しょうかい)や賈充(かじゅう)、傅カ(ふか)のような能臣も積極的な協力者となったのです。

今回は、時代の覇者となった司馬氏その勃興の祖、司馬懿ついて記事にしました。







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司馬懿 ~遅れて来た名将 三国を席捲する

魏王朝内で隠然たる権力を築き上げた司馬懿。彼は己の腕一本で司馬氏勃興の端緒を開いたのです。

司馬懿は曹操によって召し出されましたが、曹操存命時には曹操の嫡男曹丕の補佐役としての仕事が主であり、大軍を指揮するような将軍位には就いていませんでした。
曹操は司馬懿の才知を警戒していたようですが、近侍していた曹丕からは絶大な信頼を勝ち得ていました。これが後に司馬懿にとって大きな機運となります。

曹丕が魏の初代皇帝に即位すると、司馬懿もそれに連れて国家の重臣の地位と将軍位を得ます。
その後曹丕が逝去し、二代皇帝曹叡(そうえい)の代になると、ついに軍隊を指揮して前線で活躍するようになります。
ちなみに宮城谷『三国志』第九巻ではいよいよ戦場に登場することになる司馬懿を以下のように描写しています。

軍を動かせるようになっても、つねに後方の守備をまかせれてきた司馬懿は、はじめて前線で指揮する昂奮をおさえきれず、
―あざやかに勝ってみたい。
と、おもった。この年に司馬懿は四十八歳である。

(宮城谷 昌光『三国志』九巻より)

四十八歳の初陣、司馬懿は武将としては相当な遅咲きでありました。
それから5年後、司馬懿は祁山(きざん)という地で諸葛亮と初対決するのです。

司馬懿と諸葛亮の対戦は祁山と五丈原の二度。二度とも諸葛亮率いる蜀軍は撤退に追い込まれました。
蜀軍撤退の理由は“食糧不足・諸葛亮の陣中での病死”とダメージを負ってのことではありませんが、持久戦を制した司馬懿に勝ち運があったと言っていいでしょう。
特に祁山での初対決は、局地戦では諸葛亮が勝っているにもかかわらず結局は撤退を余儀なくされる、という完全な運勝ちです。

祁山の戦いは司馬懿の“唯一”の軍事的失敗となりました。
しかしこれ以前もこれ以後も司馬懿は出陣して全戦全勝、蜀・呉に名将が少なくなっていた時代とはいえ驚異的な戦績です。

武将としての出遅れを取り戻すかのように瞬く間に軍功を重ねていく司馬懿。
曹操の代から仕えていた名将たちも全て世を去り、軍功で司馬懿に及ぶ者は王朝内に誰もいなくなりました。

そして曹叡が亡くなり、幼い曹芳(そうほう)が三代皇帝に即位すると先代から引き続き皇帝の補佐役に任命されます。

『三国志』十巻では曹叡の死を目前にした側近や皇族が、次代の権勢を求めて皇帝の病床のすぐ傍で蠢くさまが描かれています。
創業の英傑たちがいなくなり幼帝を立てるようになった魏王朝は、徐々に暗い権力闘争の舞台へと化していくのです。
怪しい気配を感じながら曹叡の今際のきわに駆けつけた司馬懿。
曹叡との最後の謁見で落涙し声を震わせる姿は、彼が怜悧狡猾な謀臣ではないと読者に気づかせてくれます。

この時、司馬懿はもはや魏王朝内で最上位の功臣となっていました。


名臣決起す 司馬氏の運命が変転する時

司馬懿と共に幼帝曹芳の補佐役として皇族の曹爽(そうそう)が任命されました。
この曹爽の存在が司馬懿のそして彼の息子たちの運命のターニングポイントとなったのです。

曹爽は就任した当初こそ司馬懿と協調して王朝運営に勤しんでいましたが、取り巻きの提言などがあり司馬懿を警戒するようになります。
そして司馬懿を権能を持たない名誉職に祭り上げ国政の実権をおのれ一人が掌握します。
曹爽はこの時点で、司馬懿と共に幼帝を補佐せよという先帝の遺命に背いていることになります。

その後、何晏(かあん)や丁謐(ていひつ)など曹爽と親しく付き合っていた者たちが国政の中枢に立つようになります。
彼らは“浮華の徒”と蔑視され、曹丕・曹叡の時代では重用されることはありませんでした。曹爽は彼らが実力どおり評価されず不遇をかこっていると考えていたのです。

国政から遠ざけられた司馬懿は沈黙します。この時点では実権を握った曹爽に表だって反発することはありませんでした。

政治の権能を失った司馬懿ですが、軍事面では変わらず王朝内に並ぶ者なき名将です。
専横を続ける曹爽をよそ目に、侵攻してきた呉軍を撃退するため出陣し、二度にわたって呉軍を退けます。

ますます高まる司馬懿の軍功に対抗するように、今度は曹爽が軍を率いて蜀へ遠征します。
この遠征は曹爽ととりまきたちの軍事能力の低さが原因で見事に大失敗します。
曹爽の軍事のまずさを天下にさらしてしまう結果となってしまいました。

遠征に失敗した曹爽ですが王朝内での権勢は衰えません。それどころか浮華の徒を重用して専横ぶりは悪化する一方です。
要職にありついた何晏らは曹爽と結託し、恣意的に制度や法律を改変したり、領地や官物を横領したりと汚職のやりたい放題です。

天子曹芳の保護者である郭(かく)皇太后が司馬懿を信頼していると聞いた曹爽は、曹芳が影響されることを危惧して二人を離ればなれにしてしまいます。
曹爽の増長は皇帝をすら蔑ろにするレベルになっていたのです。
そればかりか浮華の徒にもてはやされ自らが皇帝となる野心を抱くようになります。
次第に司馬懿と曹爽は対立する関係になっていきました。

曹爽の権勢が絶頂期をむかえた頃、司馬懿は病と称して出仕を控えるようになります。
朝廷からまったく身を引いたかたちの司馬懿ですが、曹爽の動向に眼を光らせることを忘れてはいません。
帝位簒奪の噂も耳にして、長男の司馬師と語らい曹爽にどう対抗するか画策します。

そしてついに、司馬懿は兵を起こして曹爽を王朝から排除する決意を固めます。

決行は年が改まって正月。
天子曹芳が先帝の眠る高平陵(こうへいりょう)に墓参する際、曹爽は郡弟を引きつれてお供することになっています。
その時を狙って挙兵する計画です。

この高平陵の変は司馬氏が曹氏に牙を剥いた最初の一撃であり、この事件をさかいにして司馬氏の運命が変わり始めるのです。

*********

長々と書いてきましたが、まだまだ書き切れません。😅
次回の記事も司馬懿とその息子たちをテーマに書いていきます。

三国志が終わるころ



「死せる孔明 生ける仲達を走らす」

この故事をご存じでしょうか? 現代から約1800年も昔の中国の戦国時代、有名な三国志の時代の出来事です。

三国志でおそらく人気No.1キャラ諸葛亮(孔明)の生涯最後の合戦、五丈原の戦いの幕切れを表したのが上の故事です。
吉川英治さんの書いた三国志ではこの戦いを物語のクライマックスに位置付けています。
そして現代では吉川三国志にとって変わった感のある北方謙三さんの三国志でもこの五丈原の戦いをもって終幕を迎える構成になっています。

"三国"時代は蜀が亡びるまであと30年は続くのにどうして五丈原で終わらせてしまうのか?

吉川英治さんは『篇外余録』という三国志の番外編でその理由を記しています。

(前略)原書「三国志演義」も、孔明の死にいたると、どうしても一応、終局の感じがするし、また三国争覇そのものも、万事やむ――の観なきを得ない。

おそらくは読者諸氏もそうであろうが、訳者もまた、孔明の死後となると、とみに筆を呵す興味も気力も希薄となるのを如何ともし難い。
これは読者と筆者たるを問わず古来から三国志にたいする一般的な通念のようでもある。

吉川英治三国志 篇外余録』より

共感できるというか納得してしまうのは私だけではないと思います。
読者だけでなく作者側でも孔明死後の三国志は気乗りしないようです。

魏・呉・蜀の三国時代が始まるのは五丈原の戦いの5年前ですので実際には三国時代の最序盤なのですが、たしかに孔明死後の三国志は、スタープレイヤーがいなくなってしまった感じがあります。

加えて三国志演義”的に面白くないのは、憎き敵役である曹魏ワンサイドゲームになっていくので、余計に興醒めしてしまうのかもしれません。

私も五丈原以降の三国志はよく知りませんでしたが、最近になって宮城谷昌光さんの『三国志』を完読して印象が変わりました。

宮城谷さんの『三国志』は正史三国志をベースにした全12巻という大ボリュームの歴史小説です。
物語の始まりはなんと黄巾の乱が起こるより50年前からという一風変わった書き出しで、司馬炎が晋の初代皇帝となったところで終わりをむかえます。(孫呉の終末は巻末付録の別篇のかたちで収録されています。)

三国時代を最後まで見届けて、少なからぬ見所があると私は感じました。それは

鍾会(しょうかい)や諸葛恪など二代目武将の台頭、郭淮(かくわい)や朱然などのベテラン武将の活躍という、新旧世代の融合であったり。

英雄たちが建国した魏呉蜀それぞれの王朝内で渦巻く血濡れた権力闘争。

異色の名将鄧艾(とうがい)の登場や姜維の不屈の闘志。

皇帝孫権の凄まじい老害ぶりであったり。

曹操劉備時代の三国志とは違う味わいの物語が展開されていきます。
マニアックな魅力たっぷりの三国志終盤戦を宮城谷『三国志』に基づきながら紹介していきたいと思います。

*三国志 終わりへの流れ

先ずは五丈原の戦い以降の三国志の流れを大まかに見てみようと思います。

五丈原の戦いより4年後

  • 西暦238年 曹魏(以後、魏)は司馬懿の軍功により、現在の北朝鮮の辺りまで支配域を拡大。
  • 239年 魏では10歳の曹芳(そうほう)が三代皇帝に即位し、司馬懿・曹爽(そうそう)の2人が後見人となり国政を取り仕切る。
  • 245年 孫呉(以後、呉)の皇太子孫和と魯王孫覇の間で確執が起こる。

原因を作ったのは皇帝の孫権であるが、問題を解決するどころか、陸遜(りくそん)をはじめ忠告を行った良臣を無実の罪に貶めて死なせてしまう。

  • 249年 魏では司馬懿がクーデターをおこし、曹爽とその与党を政権から排除。司馬懿が実権を掌握する。
  • 251年 魏では司馬懿が病死。長男の司馬師が司馬一族の長になる。
  • 252年 孫呉の皇帝孫権が逝去する。太子であった孫和が前々年に廃嫡されたため、新皇帝には孫権の末子の孫亮が即位した。諸葛恪が孫呉の実権を掌握する。
  • 253年 蜀漢(以後、蜀)の国政のトップである費禕(ひい)が暗殺される。 呉でもトップの諸葛恪が誅殺される。
  • 254年 魏の司馬師がクーデターを起こし、皇帝曹芳を廃して曹髦(そうぼう)を新皇帝に即位させる。
  • 258年 呉の将軍孫淋(そんりん)によるクーデターが起こる。皇帝孫亮を廃し、孫亮の兄孫休が新皇帝となる。
  • 260年 魏帝曹髦は権勢が大きくなりすぎた司馬昭を排除するため、宮中の兵など数百人を集めて挙兵するも、司馬氏側についた賈充(かじゅう)らによって殺されてしまう。 曹魏の五代目皇帝に曹奐(そうかん)が即位する。
  • 263年 魏は鐘会や鄧艾らに大軍を率いさせ蜀討伐を開始。蜀軍は姜維を筆頭に懸命に防衛するも、鄧艾の奇襲作戦により帝都の目前まで侵攻を許してしまう。蜀帝劉禅は一戦もすることなく降伏。蜀は滅亡した。
  • 264年 孫呉では皇帝孫休が病死し、孫皓(そんこう)が新皇帝に即位した。
  • 265年 司馬昭が死去し、長男の司馬炎が跡をついで、晋王の位に就く。 その後司馬炎は魏帝曹奐に禅譲(王権の譲渡)を行わせ西晋を建国、自身が初代皇帝に即位する。 ここに魏は滅亡した。
  • 279年 西晋が大軍を動員して孫呉へ全面侵攻をかける。
  • 280年 呉帝孫皓西晋に降伏し、呉は滅亡した。 西晋が天下統一を成し遂げた。


長々と書き連ねてしまいました、以上が三国志終盤の大まかな経緯です。

孔明死後の三国志は王朝内の権力闘争の連続で、国家の重臣や皇太子や皇帝までも目まぐるしく入れ替わっていきます。
蜀では皇帝の廃替こそ無かったものの
宦官(かんがん)の黄皓(こうこう)が権勢を強め国家運営にただならぬ影響力を持つようになります。

ちなみに上の年表で蜀に関する記述が少ないのは特筆するほどの事変が無かった為です。
姜維が何度も北伐を敢行したのですが、めぼしい戦果が無く国力を消費してしまった、というくらいでしょうか。


曹操劉備そして孫権が、群雄割拠の時代を命懸けで戦い抜いて苦難の末に生まれた3つの国家でしたが、時が過ぎるにつれ功臣は少なくなり内部から乱れ、やがては消滅してしまいます。
こうした“滅びの美学”と言いますか哀愁を感じられるのもクライマックスならではであります。

三国志終盤戦の見どころを書くつもりでしたが全然書き切れません。😅
また次回も続けていきたいと思います。

愚者の読書ライフ ~好奇心で広がる無限の楽しみ


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はじめまして 読書が趣味の活字中毒悪人ヅラ 金城 四六(きんじょう 四六)です。☺️
このブログは私が読書によって得た知識や感想などをお伝えしようと考えています。
本の紹介にならない時もあるかもしれませんが、御一読いただければとても嬉しいです。


私は子供のころから本を読むのが好きで、気の向くままに広く浅くの読書人生を送ってきました。

私にとって読書とはエンタメです。マンガやドラマを見るのと何も違いはありません。だからこそずっと趣味として続いてきました。

これまでの読書経験が自分の血肉になっているかというと自信はありません。
知識として頭に収まっているのかというと、これも全然で、ぼんやりとした知識しか残っていません。

私が読書をするのは単に知的好奇心を満たすためです。自分が知らない知識や社会にふれることが面白いと感じるからです。

読書という趣味は無限の広がりをもつ特異な趣味だと思っています。
本の数は星の数ほどあり、好奇心の赴くままに延々と星をわたり歩くようなものです。知的好奇心が尽きないかぎり、どこまでも歩いて行けます。

読書とは何だろう?“読”の多様化の時代 不要な縛りは捨てるべき


ここでひとつ話を変えて愚問を呈したいのですが、
新聞や雑誌を読むことは読書と言えるでしょうか?
NOと答える人は多いと思います。 “本を読む”ことが読書の定義だと考えるからです。

ではマンガ本はどうでしょうか?
これも読書の内には入らないと考える人が結構いるのではないでしょうか。

読書には「教養や知識が内包されている幼稚では無い本を読むべきだ」という固定観念がついてまわります。
つまり読書とは諸要件を満たした本を読む行為だ、という隠然たる社会通念があるのです。

私自身そうした気持ちがあったのは確かで、マンガ本を数十冊読んでそれを読書だと言われれば違和感を感じました。

しかしあらためて考えると「マンガは読書に入らない」と区別する理由が分からなくなりました。

東野圭吾や米澤穂信のミステリーは読書に入り、名探偵コナンや金田一少年は読書ではない、両者の当否を分けるものはなんでしょうか?
単に活字主体かイラスト主体かそれだけの違いではないでしょうか。
マンガ本は厳密に書籍の一種ですから小説文庫本などとの差異はありません、

小説とマンガでは内容に差がある、とすると更に線引きが難しくなります。
どのような内容だと読書にならないのか、 東野圭吾原作のマンガを読むことは読書になるでしょうか?

結局、マンガ本を読書の範疇から排除してしまうとその当否について禅問答になってしまいます。
何十年も昔ならいざ知らず、現代では歴史や政治や金融など社会的テーマを扱ったマンガが山ほどあります。
ヘタな文学小説よりもよほど現実に即した知的な読み物です。

私は特別にマンガ本を擁護したい訳ではありません。情報を掲載する媒体が多様化している現代においては読書への観念もまた、広義に捉えてよいと思うのです。

現代は電子書籍の登場によって、すでに本そのものを必要とせずに読書をすることが可能なのです。
“本を読むこと”という読書の定義は消えたといってよいでしょう。

マンガ以外の新聞や雑誌、はたまたインターネットのニュースサイトや各種情報サイト、ブログも含めて。
“書籍”ではなくとも情報が掲載されているメディアを渉猟することも、読書の1つと意識するべき時代になっています。


メディアの多様化により“読書”はモデルチェンジを果たしました。
かならずしも書物を手に取らずとも読書が出来るのです、であれば“書”にこだわり過ぎる必要はありません。

大切なのは“読む”ことです。
このブログは私が“読む”ことで得た知識や感想をみなさんにお伝えしていきます。